東京高等裁判所 昭和28年(ネ)3号 判決
原判決中「原告その余の請求を棄却する」とある部分を除くその余の本訴に関する部分を次のように変更する。
控訴人は被控訴人に対し被控訴人から金千二百五十万円の支払を受けると引換に別紙目録<省略>記載の不動産中木造トタン葺平家建倉庫一棟建坪約十坪を除くその余の土地及び建物につき、昭和二十六年五月三十一日附売買による所有権移転登記手続をなし、かつ右土地の引渡及び建物の明渡をなすべし。
控訴人は被控訴人に対し昭和二十六年十一月一日から右建物明渡ずみにいたるまで一カ月金三十万円の割合による金員を支払うべし。
被控訴人の本訴請求中その余の部分を棄却する。
控訴人の反訴に関する本件控訴を棄却する。
本訴の訴訟費用は第一、二審を通じてこれを五分し、その一を被控訴人の、その余を控訴人の各負担とし、反訴に関する控訴費用は控訴人の負担とし、参加によつて生じた訴訟費用は参加人の負担とする。
この判決の第一、二項中土地引渡及び建物明渡に関する部分に限り仮りに執行することができる。
控訴人において金三百万円の担保を供するときは右仮執行を免れることができる。
二、事 実
控訴代理人は原判決中原告その余の請求を棄却するとの部分を除きその余を取り消す。被控訴人の本訴請求を棄却する、被控訴人は控訴人に対し別紙目録記載の不動産(但し木造トタン葺平家建倉庫一棟建坪約一〇坪を除く)につき、昭和二十六年六月五日東京法務局受付第六六〇三号をもつてした被控訴人のための所有権移転請求権保全の仮登記の抹消登記手続をなすべし、訴訟費用は第一、二審を通じ本訴及び反訴とも被控訴人の負担とするとの判決を求め、被控訴代理人は控訴棄却の判決を求めた。
当事者双方の事実上の主張は、控訴代理人において、別紙目録記載の物件のうち木造トタン葺平家建倉庫一棟建坪約一〇坪につき、控訴人は従前これが控訴人の所有で、かつ本件売買契約の目的中に含まれることを自白したが、右自白は真実に反しかつ錯誤にもとずくものであるからこれを取り消す、右事実は否認する、右倉庫一棟ははじめから控訴人の所有に属せず、右建物はもと西銀座七丁目町内会が建築所有するものであつて、終戦後右町内会解散の後は銀座西七文化協会(代表者建部友七)がこれを承継所有するものであつて、本件売買契約の目的中に含ませるわけがない、別紙目録記載の不動産(但し倉庫一棟を除く)については債権者訴外小野繁吾(補助参加人)債務者控訴人間の東京地方裁判所昭和二十七年(ヨ)第三一七一号仮処分事件において昭和二十七年七月四日附同裁判所の仮処分決定により控訴人は占有の移転、所有権の譲渡その他一切の処分を禁止せられたものであるから、本件売買契約の履行は不能である。仮りに本件売買契約が有効に存続するものとしても、控訴人の義務に属する右土地及び建物の所有権移転の本登記並にこれが明渡は、被控訴人の義務に属する売買代金残額一千二百五十万円の支払と同時履行の関係に立つものであるから、控訴人は被控訴人の右金員の支払と引換でなければ被控訴人の本訴請求には応じられないと述べ、被控訴代理人において、控訴人の右自白の取消に異議がある、この点に関する控訴人の従前の自白を援用する、仮処分の事実は知らない、仮りにその事実があつてもなんら履行不能の問題には関係がないと述べた外、すべて原判決に事実として記載されたところと同一であるから、ここにこれを引用する。
<立証省略>
三、理 由
先ず被控訴人の本訴について判断する。
被控訴人が昭和二十六年五月三十一日控訴人との間で、控訴人所有の別紙目録記載の物件(但し木造トタン葺平家建倉庫一棟建坪約一〇坪に関してはしばらく別とする)を代金合計二千二百五十万円で買受ける旨の契約をし、即時売買手附金三百万円を控訴人に支払つたこと、その際右契約の履行につき(イ)被控訴人は昭和二十六年六月五日売買代金の内渡金七百万円を控訴人に支払うと同時に右不動産の所有権移転請求権保全の仮登記をすること、(ロ)同年七月三十一日迄に被控訴人は売買残代金のうち金六百万円を控訴人に支払うべく、被控訴人が物件の一部の明渡を受けた時は直ちにその部分の改造に着手し得ること、(ハ)控訴人は右金六百万円の支払を受けると同時に右不動産に設定されてある抵当権につきその被担保債務を弁済してその設定登記を抹消させること、(ニ)控訴人は同年八月三十一日迄に被控訴人に対し右不動産全部を完全に明渡しかつ所有権移転登記手続をすること、被控訴人はこれと同時に残代金六百五十万円を支払うこととの各条項が約定されたこと、被控訴人が右約旨に従い昭和二十六年六月五日売買代金の内渡金七百万円を控訴人に支払うとともに別紙目録記載の不動産中倉庫を除くその余の物件につき東京法務局同日受付第六六〇三号をもつて右売買による所有権移転請求権保全の仮登記をしたことは当事者間に争ない。
被控訴人は右売買契約には控訴人の所有に属した別紙目録記載の木造トタン葺平家建倉庫一棟建坪約一〇坪もその目的に含まれたものであると主張し、控訴人は従来この事実を自白したところ、当審において右は真実に反し錯誤にもとずくからこれを取り消すと主張するので、右自白の取消が許されるかどうかについて検討する。成立に争ない甲第二号証の一の記載によれば、本件売買契約の契約書において契約の目的物件とされた添附の物件目録中には右倉庫一棟の記載がなく、当審における証人建部友七の証言及び控訴人本人尋問の結果によれば、右倉庫はもと銀座西七丁目町内会において建築した同町内会の所有であつて、終戦後町内会解散の後は銀座西七文化協会(代表者建部友七)がこれを承継所有し、現在もと右町内会の事務員であつた高橋某がここに居住しているのであつて、当時から控訴人の所有ではなかつたことが明らかである。ところで自己の権利に属しない他人の所有物を第三者に譲渡するということは必ずしも異例とするにはあたらないけれども、その場合には売主において右権利を取得した上これを買主に移転するにつき特段の用意がなければならないはずであるのに、本件にあらわれたすべての証拠によつても控訴人においてこのようなことについて配慮した形跡の認めるべきものがなく、前記甲第二号証の一、右控訴人本人尋問の結果及びこれにより成立を認めるべき乙第八号証に本件口頭弁論の全趣旨をあわせると、本件売買の目的物は右倉庫の点を除いてはすべて控訴人がさきに訴外藤山同族株式会社から譲受けたものと同一の物件であり、右訴外会社からの譲受物件中には右倉庫はなく、しかも右倉庫のたつている敷地である東京都中央区銀座西七丁目三番地の二(但し甲第二号証の一の本件の契約書には同所同番地の一、十三借地十八坪三合八勺とある地番は右三番地の二のあやまりであること成立に争ない甲第一号証の一、二から考えて明らかである)の借地権については、わざわざ売買の対象として本件契約書の物件目録中に記載してあるのであるから、もしその地上の物件についてこれが売買の対象であるならば、当然それも記載されてしかるべきものであつて、たんに書き忘れたものとして片付けるのは相当でない。以上の事実と当審における控訴人本人尋問の結果とをあわせると右倉庫一棟は本件売買契約の目的物となつていなかつたものであると認めるべきである。もつとも他人の物件の存在する借地の権利をその地上物件にかかわりなく売買するということも、一見実益なき所為として不審の感を免れないもののようであるが、前記建部友七の証言によれば右倉庫所有のため当該敷地を使用する権利が何であるかということはきわめてあいまいであり、果して正権原にもとずくものといえるかどうか疑問のあることがうかがわれ、当審における証人阿部勝之進の証言によれば右倉庫は未登記の粗末なものでほとんど使用にたえない程度のものであつたことが明らかであるから、本件当事者としてはその借地権だけに価値を認め、右地上物件の如きは重きをおかなかつたものと見るのが相当である。以上の認定に反する原審及び当審における証人阿部勝之進の証言及びこれにより成立を認めるべき甲第三号証、成立に争のない甲第九、第十号証の一の各記載はいずれも信用することができない。しからば控訴人の前記自白は真実に反すること明らかで、従つてまた錯誤にもとずくものというべきであるから、これが取消は許すべきである。しかして右物件が本件売買契約の目的に含まれるものと認めるべきでないことは前記説明からおのずから明らかであるから、この点に関する被控訴人の本訴請求は失当である。
被控訴人は右契約条項(ロ)に定められる昭和二十六年七月三十一日までに明渡すべき右建物の部分は、総坪数の半分以上という約定であるから、被控訴人は右七月三十一日の前後数回に右(ロ)に定めた残代金のうち金六百万円を支払のため控訴人に提供したが控訴人は猶予を乞うてその受領を拒み、かつ建物半分の明渡を履行せず、同年八月三十一日の最終日にも右土地建物の移転登記並びに土地引渡及び建物明渡を履行しないからここにこれが履行を求めると主張するところ、右甲第九号証、同第十号証の一の各記載、原審及び当審証人阿部勝之進の証言並びに同被控訴人本人尋問の結果をあわせると、前示条項(ロ)に定められる期限に右建物の総坪数の半分以上を明渡すべき旨の約定であり、昭和二十六年七月末ごろ被控訴人は資金の用意をして控訴人に対し右金六百万円はいつでも支払えるから受取つてもらいたいと申入れたが控訴人はなお明渡の履行ができないからとて猶予を求め、次いで同年八月末日ころには被控訴人は残代金全額の支払準備あることを告げてその受領と建物明渡の履行を求めたこと、当時建物の明渡は履行できるものがなく、控訴人としては代金の提供があつても拒絶する外なき状況にあつたことを認め得るところである。従つて被控訴人のした右提供は現実のそれではなかつたがなお言語上の提供としてその効あるものというべきであり、控訴人が現に本件の履行をしないままであることは弁論の全趣旨から明らかである。
よつて控訴人の抗弁について順次判断する。
控訴人は右売買契約当時右売買の目的物たる前記建物には控訴人の占有部分がなく、多数の第三者が占有しており、これら占有者から契約所定の昭和二十六年八月三十一日までに占有部分の明渡を受けることは不可能であつたから、同日までに右建物を被控訴人に明渡すことも不可能であつて、ひつきよう右売買契約は不能の給付を目的としたものであるから無効である旨主張する。しかしながら本件契約は前記のとおり宅地及び建物の所有権移転その移転登記並びに土地建物の明渡等を給付の内容とするものであるところ、被控訴人は右不動産買受後はこれを改造の上キヤバレー営業のため自ら使用しようとするものであることは弁論の全趣旨から明らかであるが、右宅地及び建物の所有権の移転及びその移転登記そのものについては当時からかくべつ給付不能の問題はない(処分禁止の仮処分の点は後述する)のであつて、建物の明渡が不能であるということは要するに契約の一部の履行不能の問題に過ぎないから、これがため本件契約が全体として当然に無効になるわけはないのである。しかのみならず右建物の明渡そのものもなんら不能であつたと認めるべき事由はない。すなわち右契約当時建物は幾人かの第三者がこれを占有しており、そのうち荒木武雄外三名に対しては控訴人から不法占拠を理由としてその明渡訴訟を東京地方裁判所に提起して係争中であつたことは当事者間に争なく、この事実と本件口頭弁論の全趣旨とによれば控訴人がこれら占有者を右建物から退去させた上、これを約定の昭和二十六年八月三十一日までに被控訴人に明渡すことは、必ずしも容易ではなかつたことは推測するに難くはないけれども、その程度が社会通念上不能と見なければならないほどのものであつたことはこれを認めるべき的確な資料がなく、かえつて前記甲第九号証、同第十号証の一、成立に争のない甲第五号証の各記載、原審(第一回)及び当審における証人阿部勝之進、原審における証人丸尾美義、同百崎保太郎、同赤羽甲の各証言、原審における控訴人本人尋問の結果をあわせれば、当時右建物の約半分を占有していた右荒木武雄外三名はその明渡につき最も強硬な態度を持していたのであるが、同人らに対する前記訴訟は裁判所の職権で調停に付せられており、昭和二十六年五月ごろは一番交渉が行きなやんでいたのであるが、それでも右調停では大体右荒木らが立退料をもらつて右占有部分を明渡すという方向に向つて話がすすめられていて、同人らは立退料として金五百二十万円程を要求し、控訴人はできるだけ減額させようとして対立していたものであり、その後本件契約に定めた履行期の後ではあるが、同年十月十一日には今一歩というところまで話は進み、ついに同年十一月十三日には調停外で、右荒木らは昭和二十七年一月末日限りその占有部分を控訴人に明渡し、これに対し控訴人は金六百万円(但し調停調書上は金三百万円とする)を支払うということで両者間に諒解が成立し、翌翌十五日の調停期日においてその旨の調停が成立し、これにもとずき荒木らは明渡を了したものであつて、本件契約当時においても控訴人において右荒木らの要求どおりの金員の支出を承諾すれば同人らとの間に明渡の合意の成立することは可能であつたものというべく、その余の占有者らについては、そのうち階下約五〇坪の一室を占有する株式会社五二商会(五二皮革産業株式会社)との関係は、控訴人が同会社から金三百万円を借受けたことのために無償で使用させていたもので、同会社は別に本社があり移転先がないわけでなく、控訴人において右金員を返還しかつ相当の立退料を提供すればこれとの間に明渡の合意の成立は可能であり、二階奥の一室約六坪を占有する宮崎某は控訴人が留守番としておいていた者であり、同じく二階の他の一室にいる内外物産株式会社及び東京原材料貿易株式会社はいずれも控訴人自身の主宰するものであり、その余の高田某、大川某、株式会社ユーナイテツド・コンマース、その他の占有者との関係も当時おおむね友好的であつて、その各自に金五六十万円の立退料を提供すれば明渡を得ることが可能であつたものであり、これらの見透しは当初から本件当事者間に明らかにせられていたのであつて、その売買代金の決定の如きもこれら占有者に支払うべき立退料をあらかじめ計上しこれを含んで前記のようにきめたものであることが認められる。当時右荒木ら以外の者に対して、はたして控訴人がどの程度にその明渡の交渉をしたかは証拠上明確には知り得ないが、このことはむしろ控訴人としては最も明渡について難渋した前記荒木らとの関係について特に意を用いこれを先決問題とし、その余の占有者らに対してはその明渡を得べきことはほとんど問題にしないでいたものと推認すべきものである。しかも明渡の最終期限である昭和二十六年八月三十一日は多少遅延しても被控訴人の諒解が得られることを期待し得べき関係にあつたことは前記証拠上これをうかがうに難くない。してみると本件契約において建物の明渡が当時から不能であつたという控訴人の主張は失当であり、この点の抗弁は採用することができない。
次に控訴人は本件売買契約は控訴人が前記建物から前記占有者らを退去させた上被控訴人に対し完全に明渡すことを停止条件としたものであるところ、右停止条件は不能であるから売買契約は無効である、仮りに右条件が不能でないとしても未だ成就していないから右売買契約はまだその効力を発生していないと主張するけれども、本件契約がこのようなことを停止条件としたものであることはこれを認めるべきなんら的確な証拠はなく、むしろ右明渡を契約の内容自体とこそすれ、これを停止条件としたものでないことは前記説示の契約の趣旨からおのずから明らかである。この点の抗弁も理由がない。
次に本件売買契約において契約書(甲第二号証の一)第七項に「甲(売主)ニ於テ明渡シ遅延其ノ他契約事項ニ付テ不履行ノ場合ハ手附金ヲ倍額ニシ内金受領金ト共ニ即時返済スルモノトス其ノ際ハ乙(買主)ニ於テ予約仮登記ヲ解除シ並ニ乙又ハ乙ノ指図人ガ占有シアル場所ハ即時明渡シ現状ニ復スモノトス乙ニ於テ右記載ノ契約不履行ノ場合ハ手附金ヲ無条件ニテ放棄シ内金ハ乙ハ甲ヨリ即時返還受領スルコト」という特約が記載されていることは当事者間に争がない。控訴人は右特約は売主たる控訴人において売買の目的物たる不動産の明渡を遅延しその他契約条項につき不履行のある場合に手附金を倍額にし内金受領金とともに即時買主たる被控訴人に返還し、また買主たる被控訴人に不履行のある場合は手附金を無条件で放棄して売買契約を解除し得べきことを約定したもの、すなわち互いに解除権を留保したものであり、控訴人は右特約にもとずいて昭和二十六年十一月十三日被控訴人に対し手附金の倍額六百万円、内渡金七百万円及び昭和二十六月六日から同日までの法定利率による遅延損害金十八万五千百八十円合計千三百十八万五千百八十円を支払のため提供して契約解除の意思表示をしたところ、被控訴人は右金員の受領を拒絶したから、控訴人は翌十四日東京法務局に右金員を弁済のため供託したものであつて、これにより本件契約は解除されたものであると主張し、控訴人が右主張の日時右金員を提供して解除の意思表示をしたが被控訴人が受領を拒絶し、控訴人がこれを供託したことは被控訴人の明らかに争わないところである。よつて、はたして本件契約において控訴人主張のような解除権留保の特約がなされたものであるかどうかについて検討する。
右契約書の文言によれば少くとも互いに契約につき不履行の場合に手附金の放棄又は倍額の返還を定める外相互の原状回復につき言及していることは明らかであるから、たんに相手方が契約の履行に着手するまで買主はその手附を放棄し、売主はその倍額を償還して互いに契約の解除をし得ることを定める民法第五百五十七条所定の趣旨をあらためて同様に定めた趣旨でないことは明らかである(控訴人もこれを主張するものではない)とともに、右民法の規定を特に除外したものでもないといわなければならない。さればといつて右契約書の文言は正確のものといい難くかつその条項にはなんら契約解除の文言を用いていないところからすれば、これが控訴人主張のような趣旨であることはこの契約書の文言自体からは結局うかがい得ないものとしなければならない。当審における控訴人本人は右契約書第七項は控訴人が訴外藤山同族株式会社から本件物件を買受けた際の契約書(乙第八号証)を参考としてその趣旨にもとずき自ら原案を作成したものであると供述し、右訴外会社との契約書である乙第八号証にはその第二条第一項に「右ノ解約ヲナス時ハ乙又ハ其ノ指示人ノ占有セル部分アル場合ハ之ヲ原状ニ回復シ甲ニ返還スルト共ニ甲ハ第二条ノ手附金全額ヲ乙又ハソノ指示人ニ返還スルモノトス」とあり、これとてもその文意はきわめてあいまいではあるが、とにかくにも買主たる控訴人のために解除権を留保したものと解せられないわけでもないけれども、これと本件契約書である甲第二号証の一(乙第九号証も同文)とをくらべればその文言の異なることは顕著であつて、乙第八号証をそのまま本件契約書に引き写したものでないことはもちろん、右乙第八号証の趣旨がそのまま本件契約書に盛られていると見ることも相当ではない。この点につき原審及び当審において控訴人本人は、本件売買契約ははじめ被控訴人の側からのたつての申出によつて取り結ぶことになつたものであるが、当時建物には多数の占有者がありその明渡に確信が持てず、約旨どおり履行ができるかどうか危ぶまれ、あくまで被控訴人から履行を請求されるにおいては控訴人は窮地に立つこととなるので、特に明渡が成功しなければいつでも手附金の倍額を返還しさえすれば契約の解除ができるようにしたものであり、しかもこの手附金も被控訴人の方は当初一千万円を交付しようと申出たのを、控訴人としてはそのような多額の金員を返還しなければ解除できないということでは困るので、前記の額に減額させたのであり、はじめ控訴人の作つたこの契約書の原案では控訴人のこの特権だけをうたつてあつたのを仲介人の阿部勝之進の意見で被控訴人の側についても規定することとしたものであるとの趣旨の供述をし、成立に争のない乙第二号証(控訴人の別件答申書)にも同様の記載があるけれども、契約当時明渡について危惧の念のあつたことは諒し得るとしても、前記のとおりその明渡は不能という程のものではなく、むしろある程度の見透しはついており、かつこれに要する控訴人の出捐の額もほぼ予想されていたとことではあり、右明渡についての懸念から直ちに控訴人主張のような趣旨の特約を定めたものとする点については右供述及び記載は信用し難いところである。手附金の額の決定のいきさつについても、この種の手附は特に除外の特約をしない限り(前記本件の特約がそうでないことは前記のとおりである)前記民法上の解約手附たる性質を失うものでないから、手附が多額であれば履行着手前の解除についてもそれだけ多額の犠牲を払わなければならないこととなるのは自明の理であるばかりでなく、後記のように損害賠償額の予定とした場合にもかくべつむじゆんする話ではないから、手附金額決定のいきさつ自体から解除権の留保があるものと推測しなければならないものではない。控訴人の作成した原案には控訴人の側についてだけこのことを規定してあつたということも、もとよりこの特約が控訴人主張の趣旨たることを証するものではない。控訴人は本件において前記契約解除の意思表示をする以前すでに、期日までに建物明渡の見込がつかないところから昭和二十六年八月二十六日被控訴人に対し右明渡の困難な事情を説明して契約を解除したい旨を申入れたところ、被控訴人はさらに明渡に努力されたい旨控訴人に頼んだので控訴人もなお一層の努力をすべき旨を約したと主張し、この事実は原審及び当審における控訴人本人尋問の結果により認め得られるけれども、もし真に、控訴人のいうごとく解除権の留保があるものであるならば、返還すべき金員を用意する都合はともかくとして、控訴人としては直ちに一方的意思表示によつて契約解除を断行するに妨げがあるはずなく、しかも控訴人が正式に解除の意思表示をした前記昭和二十六年十一月十三日当時は、すでに前認定のとおり明渡について最も控訴人を悩ませた荒木ら関係の分はほぼ解決の見透しがついたものと推測される際のことであつて、この期に及んで控訴人は本来明渡困難の場合を予想して特約したという解除権を行使するの挙に出たことになるわけであつて、その事柄自体とうてい不自然の感を免れず、率直にこれを理解することができないところである。いわんや控訴人が金千三百万円余に上る金員を確たる根拠なくして漫然供託する筈がないとの論のごときは、すこしも前記特約の存在を証明する上に、加えるところがない。当審証人内田美津江の証言によつてはまだ控訴人主張の特約を認めしめるに足りず、その他にこれを肯認せしむべき的確な証拠はない。
かえつて成立に争のない甲第四号証の一ないし四、前記甲第九号証、同第十号証の一、成立に争のない甲第十一号証の一ないし三の各記載、原審における証人松井善之輔、同畑本克己、原審及び当審における証人阿部勝之進の各証言、原審及び当審における被控訴人本人尋問の結果に、前記本件契約書の文言及び本件口頭弁論の全趣旨をあわせ考えれば、当時被控訴人は本件建物の明渡を受ければ直ちにその改造に着手しおそくも昭和二十六年十二月のクリスマスに間に合うように同所においてキヤバレーを開設したい意向であり、そのため本件契約の後松井善之輔にその設計を依頼し、同人らとともに名古屋及び関西方面の同業施設を視察し、これを参考として右の計画に着手し、改造に要する資材や人員の手配をし、一方所轄東京都知事に対しては控訴人の承認のもとに右改造についての許可申請をする等諸般の準備をしていたもので、被控訴人としては建物明渡について多少の遅延はやむを得ないとしてもできるだけ履行を求めて所期の目的を達するよう希望していたものであつて、控訴人の履行遅延の結果止むなくその不履行を理由として自ら契約を解除する場合はかくべつ、しからずして被控訴人の好むと好まざるとに拘らず控訴人の任意によりなんどきでも手附金の倍戻しによつてこの契約が解除され得るというが如き趣旨の条項を結ぶべき状況にはなかつたものであつて、ただ本件には特に建物明渡の点について懸念があり、控訴人としては極力明渡に努力はするがそれが約旨の期間内に奏功せず、その履行が遅延しもしくは一部の明渡が残つたりするような場合に、被控訴人からこの不履行を理由として契約を解除される仕儀となり、それについて多額の損害賠償を請求されることとなると、控訴人としては今までの努力が水泡に帰するのみでなく、多大の損失をまねくこととなるので、その場合にそなえて右不履行を理由として契約を解除された場合にその不履行にもとずく損害賠償の額を手附金と同額と予定し、同様のことを買主たる被控訴人の側についても規定するとともに、その際における相互の原状回復について約定したのが、前記契約書第七項の趣旨であることを認定するに足り、契約書の文言は正確ではないけれどもかかる趣旨のものとしてこれに臨むときは、文意おのずから通ずるものあることをおぼえるのである。
しからば控訴人のした前記契約解除の意思表示はなんらその効力を生ずるものでないことは明らかであつて、この点の控訴人の抗弁もまた採用することができない。
さらに控訴人は本件不動産についてはその後訴外小野繁吾(補助参加人)を債権者とし控訴人を債務者とする東京地方裁判所昭和二十七年(ヨ)第三一七一号仮処分事件における昭和二十七年七月四日附同裁判所の仮処分決定により控訴人は現に占有の移転所有権の譲渡等一切の処分を禁止されているのであるから、今日においては本件売買契約の履行は不能であると主張する。右仮処分のあつたことは成立に争ない乙第七号証の記載により認め得べく、右事件において右小野繁吾の主張するところは本件物件は控訴人と右小野との共有であるとし、これにもとずき控訴人が単独でした処分を争うにあることは本件口頭弁論の全趣旨からこれをうかがい得るが、成立に争のない甲第一号証の一ないし三の記載によれば右小野主張の共有権についてはその登記を経ていないことが明らかであつて、仮りに同人にその主張の権利があるとしてもこれをもつて第三者たる被控訴人に対抗し得ないことはもちろんであるから、前記仮処分は被控訴人を拘束するものではないというべく、これあるがため控訴人の被控訴人に対する本件契約の履行が不能となるものとは解することができない。この点の抗弁も理由がない。
よつて進んで控訴人の同時履行の抗弁について検討する。控訴人が約旨にもとずき被控訴人に対し被控訴人の請求にかかる本件不動産の本登記並びに土地引渡及び建物明渡の履行をすべき義務があるとともに、被控訴人は控訴人に対し売買代金残額一千二百五十万円を支払うべき義務あることはすでに前記説明よりして明らかである。控訴人には右の外なお若干の債務あること当事者間に争ない事実及び本件の証拠上これをうかがい得ること前示のとおりであるが、被控訴人は本訴において右登記及び引渡明渡以外の請求はしないところであるから、本件において被控訴人の残代金支払義務と控訴人の登記並びに引渡及び明渡の義務とが互いに対価関係に立ち、同時履行の関係にあるものというべきことは前記契約の趣旨からみておのずから明らかである。被控訴人が昭和二十六年八月末日ごろ有効に残代金支払義務につき履行の提供をしたことはさきに認定したとおりであるから、被控訴人はそれ以後はこれにつき遅滞の責を負うべきものではなく、その反面控訴人においてその債務の履行につき遅滞の責を負うものであることは明らかである。しかしながら被控訴人が右債務を現実に弁済しもしくは弁済のため供託する等債務消滅の事実のあつたことは本件において認めるべきものがないから、被控訴人はなお残代金支払の義務を免れるものではなく、従つてこれに対し控訴人はもはや全面的に同時履行の抗弁を主張し得ないというものではなく、少くとも相手方の給付と引換にのみ自己の給付をすべきものとする限度においては、この主張をなし得べきものといわなければならない。これ同時履行の制度はもつぱら双務契約の当事者双方の利害を調節し両者の間の公平を保とうとするにあるものであるから、その現実の適用にあたつてもできるかぎり二個の給付の時間を同時ならしめることが、最もよくその制度の趣旨に適合するからである。従つて控訴人は被控訴人から金一千二百五十万円の支払を受けると引換に本件不動産につき昭和二十六年五月三十一日附売買による所有権移転登記並びに土地引渡及び建物明渡をなすべきものである(大審院大正六年(オ)第五九四号同年十一月十日言渡判決大審院民事判決録第二三輯一九六三頁同抄録第七五巻一七一九九頁、大審院昭和五年(オ)第二七八九号昭和六年九月八日言渡判決法律新聞第三三一三号一六頁参照)。もつとも被控訴人の支払うべき金員のうち六百万円については被控訴人のこの支払と同時に控訴人は本件不動産の負担する抵当権につきその設定登記の抹消登記手続をすべき旨が定められたことは当事者間に争なきこと前記のとおりであり、前示甲第一号証の一ないし三の記載によればこれらの土地建物には第三者のため債権元本額合計四百八十万円余(債権極度額百万円を含む)及びその利息損害金を担保するため右各不動産を共同担保とする三口の抵当権設定登記(右百万円を極度額とする根抵当を含む)があることがうかがわれるから、真実右抵当権の存在する限り被控訴人としては本件不動産上その負担を免れない関係にあるのであつて、自己の債務の全部と引換に右登記及び明渡を得ても、後に不利益をこうむるおそれがないわけではない。しかしながら被控訴人は本訴において控訴人に対し特に右抵当権の登記抹消を求めてはおらず、また民法第五百七十七条の権利を行使するものでもなく、かつまた右債権極度額百万円についての根抵当において現実にはいくらの債務が発生しているか、これらの債務が、はたして現在もなお存続するかということは本件において認めるべきなんらの資料もないところであるから、結局右契約条項に拘らず被控訴人は残代金全額の支払をなすべきものとする外はないのである。こうしたからといつて、被控訴人は法定の方法によつて抵当権の滌除をなし、また第三者として控訴人に代位して弁済をし、その他自己の出捐で権利を保全し、これらの費用を控訴人に償還せしめ得ることは被控訴人に残された権利であり(民法第五百六十七条)、これをもつて自己の債務と相殺することももとより許されるところであるから、残代金全額の引換給付を命じたとしても、必ずしも買主たる被控訴人の立場を特に不利にし同時履行の認められるゆえんの根拠を空しくするものということはできない。
最後に被控訴人の損害賠償の請求について判断する。控訴人が現に右目的たる建物を被控訴人に明渡さないことは前示のとおりであり、被控訴人がすでに自己の債務を一旦提供した以上、控訴人はたんに相手方の給付と引換にのみ自己の給付をし得るに止まり、右明渡義務の不履行につき遅滞の責を免れないことも前記のとおりであるから、控訴人はこれによつて被控訴人に生ぜしめた損害を賠償すべき義務あることは明らかである。原審証人阿部勝之進(第二回)同赤羽甲の各証言によれば前記建物の相当賃料額が昭和二十六年十一月一日から以後少くとも一カ月金三十万円を下らないことが認められるから、特段の反証のない本件においては、控訴人は右明渡義務の不履行により昭和二十六年十一月一日から右明渡ずみにいたるまで一カ月金三十万円の損害を被控訴人にこうむらせているものとして被控訴人に対しこれが賠償の義務があり、この点に関する被控訴人の請求は原審認容の右の限度において正当として認容すべきものである。もつとも前記契約書第七項に定めた損害賠償額の予定は本件履行遅延による損害賠償についても適用があるのではないかとの疑問がないわけではないが、本件においては、右特約をもつて債務不履行一般に原因する損害の賠償額予定をしたものと解すべき資料は現われないのみならず、本件弁論の全趣旨によれば、当事者双方とも右のような意味の主張をするものでないこと明かであるから、これは前にも説示したようにどこまでも、債務不履行を理由として契約が解除された場合についての損害賠償予定と解するのが相当であるから右特約の存在は本件履行遅延による損害賠償には関係ないものといわなければならない。
次に控訴人の反訴につき判断する。控訴人は前記本訴に対する答弁及び抗弁として主張したと同一の事実(但し仮処分にもとずく履行不能の抗弁及び同時履行の抗弁を除く)にもとずき本件売買契約が当初から無効であるか又は解除されたものとし、被控訴人のした前記不動産に対する所有権移転請求権保全の仮登記の抹消登記手続を求めるものであるけれども、その請求の理由のないことは前記本訴における判示によりおのずから明らかであるから、これを棄却すべきものである。
よつて被控訴人の本訴請求は上来判示したようにその限度で正当として認容し、その余を理由のないものとして棄却すべく、これと異なる原判決の本訴に関する部分中「原告その余の請求を棄却する」とある部分を除くその余を右のように変更すべく、控訴人の反訴に関する原判決は相当であるからこの点に関する控訴人の本件控訴は理由のないものとして棄却すべく、訴訟費用及び参加費用の負担につき民事訴訟法第九十六条第九十五条第八十九条第九十二条第九十四条を、仮執行の宣言及びその免脱につき同法第百九十六条を各適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 藤江忠二郎 原宸 浅沼武)